アールデコ |
1910年代から30年代にかけてパリを中心に西欧で栄えた装飾様式。それ以前のアールヌーヴォーが曲線を主とするのに対し、現代都市生活に適した実用的で単純直接的なデザインを特徴とします。1925年様式。 |
安国寺(あんこくじ) |
14世紀、夢窓疎石(むそうそせき)という禅僧の勧めにより、全国に置かれた寺院で利生塔(りしょうとう)(利生とは人々に利益を与え、救済に努めること)と一組に建てられました。南北朝の争乱の戦死者の霊を弔うことと禅の思想を人々に広めることを目的としました。 |
「伊勢名勝志」 |
明治22年(1889)に宮内黙蔵の著した伊勢地方の名勝地のガイドブック。城砦跡に関するものが多いです。 |
伊雑宮(いざわのみや) |
志摩市磯部町にあり、内宮(皇大神宮)の別宮のひとつです。度会郡大紀町の瀧原宮とともに天照大神の遥宮(とおのみや)として天照大神の御霊を祀っています。歴史は古く、神亀6年(729)の『正倉院文書』に「粟島神」「伊雑神」としてみえています。延暦23年(804)の『皇大神宮儀式帳』に宮名がみえるほか、『延喜式』には「粟島坐伊射波神社二座」とその名が掲載され延喜式内社に列せられています。
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入母屋造(いりもやづくり) |
上部は切妻造、下部は寄棟造となる屋根の形式のひとつ。 |
海老虹梁(えびこうりょう) |
虹梁とは虹のようにゆるいカーブをした梁のことで社寺建築によく使われます。絵や彫り物が施されて装飾性の強いものです。このうちS字形に大きく湾曲したものは、その姿から海老虹梁とよばれます。 |
往生要集(おうじょうようしゅう) |
極楽浄土に往生するための心構えや実践方法を説いた源信(げんしん)という僧の著作。冒頭に六道世界についての解説があり、特に地獄について詳しく記していることが特徴です。永観三年(985)に完成。 |
黄檗(おうばく) |
キハダという木の樹皮からとった黄色の染料。 |
大賀賢励(おおがけんれい) |
下野村・浄円寺の住職のかたわら忍藩の藩校興譲堂の教頭として教育にも寄与した人物です。当時の教部省が発行した「三條の教憲」の解説書である「三條述義」を著す一方、漢詩にも才能を発揮しました。「旭川詩鈔」はその代表作です。文政二年(1819)生、明治三十九年(1906)没。 |
折本(おりほん) |
屏風のように折りたためる本 |
頭貫(かしらぬき) |
柱と柱をつなぐため柱の頂に溝を掘り、そこへ落とし込む板。 |
唐草文(からくさもん) |
つる草がからみあうさまをデザイン化したもの |
雁皮(がんぴ) |
ジンチョウゲ科に属し、夏に円筒状の黄花が咲く低木の樹皮繊維を使って漉いた紙を雁皮紙といいます。古くは斐紙とよび、また厚手のものは卵の殻の色に近いので鳥の子紙とよびます。 |
城戸賢(きどけん) |
郡山藩の代官城戸金作の子として延享元年(1744)に四日市町に生れ、安永九年(1780)郡山に移った後、藩の儒者として活躍しました。天明二年版(1782)の「平安人物志」(京都在住の様々な分野に秀でた人物のリスト)に学者として挙がっています。寛政十一年(1799)没。 |
玉眼(ぎょくがん) |
刻んで目を表す彫眼とは異なり、仏像の目に水晶を入れて写実的な効果をあらわすもので、鎌倉時代から盛んになりました。 |
切妻造(きりづまづくり) |
山の斜面のように両側に流れるかたちの屋根。 |
結跏趺坐(けっかふざ) |
座り方のひとつ。趺とは足の甲のこと、跏はももの上に載せることで、結は両足を交差させることをさします。足首を交差させるあぐらとは異なります。どちらの足が上になるかによって意味も変わり、右足が上になると吉祥坐といって悟りを開いたときの状態をあらわし、左足が上になるときは降魔坐といってまだ修行中の状態をあらわします。 |
検見(けみ) |
その年の年貢高を決めるために収穫前に行う調査。毎年年貢高の変わらない定免法とは対照的な方法 |
検地帳 |
検地とは、戦国大名が領内の土地の面積を測り、土地のランクを決め、そこから徴収できる石高を定める作業をさし、家臣にその支配地分の帳簿を提出させる指出(さしだし)とよばれるものと領主が役人を派遣して実際に調査する検地とがありました。検地のなかで最も有名なのが全国の調査を行った豊臣秀吉による太閤検地でした。検地帳は検地を記録した帳簿で、領主に原本を届け、控えを各村で保管することが多かったようです。 |
向拝(こうはい) |
仏堂、社殿の張り出し部分。宝性寺の場合、下層の屋根の中央部に突き出した小さ目の屋根とそれを支える柱があり、柱に囲まれるように階段が設けられています。 |
境争論(さかいそうろん) |
争論は相論とも書き、裁判で争うことをさします。村の境界線をめぐるものが境争論ですが、他に用水権をめぐるものに水論があります。 |
錆漆(さびうるし) |
生漆に砥粉を混ぜて練り合わせたもの。錆下地ともよび、防腐と色の接着に有効です。 |
錆下地(さびしたじ) |
生漆に砥粉を混ぜて練り合わせもので木材の防腐と色の接着に有効です。 |
沙羅双樹(さらそうじゅ) |
沙羅はインド原産のフタバガキ科の常緑高木。淡黄色の小さな花をつけます。釈迦はクシナガラ(インド北東部)郊外の沙羅樹の林のなかで涅槃を迎えました。このとき8本の沙羅樹のうち半分は枯れたという伝えがあり、大樹寺の涅槃図もこの伝えをもとにしています。双樹というのは、釈迦を囲む東西南北の2本ずつ計8本の沙羅樹が涅槃に入るとき、2本にまとまって釈迦を覆ったという伝えによるとも考えられています。 |
下田亨三(しもだこうぞう) |
明治時代の四日市の政治家。地租修正運動を指導するほか 帝国議会開設が具体化されると朝明郡共和会という政治団体を旗揚げ、明治三十年(1897)の最初の郡会選挙で下野村から選出されました。明治三十一年(1898)の県会選挙でも当選。また尾崎行雄がおこした護憲運動を三重郡内で指導しました。また下野村長としても活躍し、1912年の家畜市場が作られた際、中心的な役割を果たしました。大正に入ってからも義務教育費全額国庫負担運動の実行委員になるなど四日市の発展に貢献した人物です。
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車輪石 |
古墳時代の腕飾りのひとつで車輪の形に似ているのでこの名がつきました。弥生時代のカサガイ製の貝輪を模して碧玉(へきぎょく)という石で作られました。 |
須弥壇(しゅみだん) |
仏教の宇宙観における世界の中央にそびえる須弥山をかたどった仏像を安置する台。 |
宿駅(しゅくえき) |
江戸時代、東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五街道をはじめとする全国の街道に整備された中継地のこと。宿駅には、問屋場以外に、本陣・脇本陣・旅籠など旅行者の用を足す多数の施設がありました。 |
書院造(しょいんづくり) |
書院(書斎)を取り入れた住宅の形式。 |
定印(じょういん) |
瞑想の境地を表す姿勢で、親指と人差し指を結んだ状態で他の指を交互に組みます。坐像の阿弥陀如来像によく見かけられるポーズです。定とは、心をひとつの対象に集中させて動揺を静め、平穏に安定させることをさします。 |
条帛(じょうはく) |
菩薩や明王がたすきのように肩にかけている布 |
数寄屋造(すきやづくり) |
茶室(数寄屋)を取り入れた住宅の形式。 |
助郷(すけごう) |
宿場付近の住民に負担させた仕事。負担する村を助郷村とよびました。助郷村は、宿場における労働用の人や馬を提供しましたが、農業の忙しい時期に重なることが多くしばしば一揆のきっかけとなり、村の人々にとっては辛い仕事でした。 |
施無畏印(せむいいん) |
右手を胸の前に上げ、掌を相手に見せる姿勢で、何ものにも畏れない力を与えようという仏の意思を表しています |
礎盤(そばん) |
柱と礎石の間に置く石または木の台。 |
台輪(だいわ) |
柱の上にあって枡組を受ける盤。観音寺の場合、中心となる二本の柱の上に差し込まれた頭貫の上に置かれています。 |
塔頭(たっちゅう) |
もともと禅宗で、弟子が寺の開祖の居住した塔所のほとりを去らず、代々守り伝えるために構えた小房をさしていましたが、転じて寺の境内にある支院をさすようになりました。 |
智拳印(ちけんいん) |
両手の親指を掌に入れて握り、左手の人差し指を突き出し右拳で包みこむように握る姿勢をさします。大日如来によく見られるポーズです。 |
智識(ちしき) |
もともと中国で友人、知人を指す言葉でしたが、経典を漢訳するなかで教えを説いて導く徳の高い人という意味にも使われました。日本ではさらに、共通の目的を持った信仰者たちをも呼ぶようになり、東大寺大仏造立のきっかけとなったとされる河内の智識寺は、そのような人々のあらゆる寄進によって建立されたと考えられています。 |
粽(ちまき) |
柱の上下を丸めて細くした部分。 |
楮紙(ちょし) |
クワ科に属し、春に薄黄緑色の花が咲き、6月にキイチゴに似た赤い実が熟す。この木の樹皮の繊維を和紙の原料に使います。 |
天冠台(てんかんだい) |
冠を載せる台をさし、おもに菩薩像の頭部を飾ります。 |
転読(てんどく) |
経文を数行読み上げること。大勢の僧侶が、まるでアコーディオンのように経典を広げては閉じる作業を繰り返します。その様子は壮大なものがあります。 |
東海道分間延絵図(とうかいどうぶんげんのべえず) |
江戸幕府が東海道の状況を把握するために作った地図です。13巻にもおよぶ大作で、寛政年間(1789~1801)にはじまり、文化三年(1806)に完成しました。問屋、本陣,寺社や一里塚、橋など丹念に描きこみ、道を山吹色、家屋を肌色にするなどして見やすく塗り分けています。菱川師宣が描き、元禄三年(1690)に刊行された「東海道分間絵図」としばしば比較されます。 |
独鈷杵(どっこしょ) |
密教の修法(しゅほう)で用いる法具。把手の両端のきっさき(鈷)が分かれていない一本の状態のもの。三つに分かれると三鈷杵、五つは五鈷杵をいいます。 |
トラス |
細長い材を三角形を並べるように繋いだ構造をさし、屋根を支える際などに用います。 |
頓宮(とんぐう) |
天皇の行幸の際の宿所、仮の宮殿 |
内行花文鏡(ないこうかもんきょう) |
鏡の中央部に半月状のかたちを繋げて一周する模様で花びらが内側を向いているようなのでこの名がつきました。 |
布基礎(ぬのきそ) |
建物の基礎の部分の工法。床下全面に鉄筋コンクリートを敷くベタ基礎に対し、布基礎は周縁部のみに鉄筋コンクリートを敷くもので、床下面を縁取るかたちになります。その断面は逆T字形をしています。 |
跋提河(ばったいが) |
釈迦の亡くなった(入滅)村クシナガラに流れるヒランヤバーディ川を漢訳した尸羅奈跋提河を略した名前 |
臂釧(ひせん) |
上腕部に光青する輪飾り、菩薩像や明王像によくみられます。 |
藤原広嗣の乱 |
天平十二(740)年に、九州を管轄する大宰府という役所の少弐(ナンバー3の地位)であった藤原広嗣が時の政府の中枢にいた玄昉や吉備真備の排除を求めて起こした反乱。大野東人を将軍とする軍隊が派遣され、これを鎮圧し、広嗣は処刑されました。 |
普請(ふしん) |
建築や土木工事のこと |
踏割蓮華(ふみわりれんげ) |
一般的には両足がひとつの蓮の上に乗るかたちで表されますが、ときおり片足ずつ、それぞれ小さい蓮の上に乗るかたちのものがあり、これを踏み割蓮華とよびます。 |
奉安殿(ほうあんでん) |
戦前に、天皇・皇后の写真(御真影)と教育勅語などを納めていた建物です。明治時代より奉安室・奉安殿などが学校に設けられ、教師や生徒が前を通るときには最敬礼をして敬ったということです。 |
本陣(ほんじん) |
江戸時代、街道宿駅において参勤交代の大名・勅使・公卿などが休泊した民営の宿屋で、寛永12年(1635)の参勤交代制の実施前後に全国的に整備されました。
本陣利用者は、寝具・食膳・風呂桶など身の回り品を持ち込み、食事は随行の料理人が行っていました。
本陣は宿代をとりませんが、その代り下賜品という形で宿泊料を受け取りました。下賜品には、金・銀・銭・菓子や衣服・扇子などがありました。 |
与願印(よがんいん) |
指をのばしたまま右手の掌を下に向けた姿勢、人の願いを授け与えるという仏の意思を表しています。これを左手でおこない、右手を施無畏印にしたポーズを釈迦如来像などにしばしば見かけます。 |
寄木造(よせぎづくり) |
頭部と胴体部を同じ木材で彫る一木造に対し、別々の木材で彫って最後に合わせる彫刻の技法。分担して製作でき、とくに巨像の場合に有効な方法です。干割れ防止や像を軽くするために内側を彫る内刳りをあらかじめ行う点でも作業を効率よく行えます。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像製作で知られる定朝が完成させたとされる技法で、平安時代後半から仏像製作の主流となりました。 |
寄棟造(よせむねづくり) |
4方向に傾斜するかたちの屋根。 |
来迎印(らいごういん) |
阿弥陀如来が人を極楽に連れて行くため迎えに来た時に表す姿勢。親指と人差し指を結ぶかたち、親指と中指を結ぶかたち、親指と薬指を結ぶかたちの3つそれぞれに、手の位置3種類が組み合わさって計9つのかたちがあり、これらが極楽浄土の9つのランクを表しているとされます。 |
緑青(ろくしょう) |
酸化銅のことで緑色の着色剤。絵画の絵の具としても使われます。 |
六道 |
煩悩あるがゆえに人が巡るとされる六つの世界。天、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄。 |
腕釧(わんせん) |
ブレスレットのことで、菩薩や明王の手首にしばしばみられます。 |