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こにゅうどうくん

四郷の二大先覚者

問い合わせ番号:15752-6404-2691 更新日:2019年 11月 11日

 かつての四郷村は、山や谷が多く、これといった資源のない小寒村でした。その村が幕末から近年にかけて、農業のほかに製糸、製茶、醸造、その他関連産業が盛ん になり、四日市市の近代産業発祥地として栄え、経済、文化の豊かな村落となったのは、ここに挙げる二人の先覚者に負うところが大きいと言われています。

伊藤傳七(でんしち)(10世) 1852~1924

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 伊藤家は、農業のかたわらみそ造り、造り酒屋、木綿問屋をしながら、藩の御用も務める家系でした。また、傳七(10世)は父(9世)について代官所の仕事も行っていました。
 幕末、安政6年(1859)幕府が一部の港を開いて、自由貿易を許すようになったのを知ると、製糸や紡績の興業が国益になると考えて、伊藤小左衛門(5世)とともに研究を始めるようになりました。
 その後、父とともに川島紡績を設立し、父の没後、渋沢栄一の援助を受けて、三重紡績会社を発足させました。 大正3年(1914)に大阪紡績と合併して東洋紡績株式会社を設立し、二代目の社長に就き東洋一の紡績工場と称されるまでになりました。
 終生、小左衛門の薫陶を忘れず、紡績で企業の近代化に尽くしました。また、村人の働き場として工場を移転したり、四郷村役場建設に寄付をしたりして、四郷村の財政に大きな貢献を行いました。 

 伊藤小左衛門(こざえもん)(5世) 1819~1879

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 小左衛門家も伊藤傳七家同様に、農業のかたわらみそ造り、造り酒屋をしながら、藩の御用も務める家系でした。また、父や伊藤傳七と共に代官所に出仕し、代官格大庄屋でもありました。
 横浜が開港して生糸や茶が外国人に人気の高いことを知ると、文久2年(1862)製糸に着手し、明治7年(1874)に器械製糸を開業しました。富岡製糸での視察を重ね苦心の末に、三重県最初の蒸気汽缶を取り入れ、良質の生糸を産し輸出するまでになりました。明治維新後の国の財政を支えた生糸と茶の工場生産に成功した小左衛門は、近代産業の祖と評価されました。
 また、政府は教育行政に力を入れるようになり、人材を世に送り出すために明治5年(1872)「学制」が頒布されたことを受け、小左衛門(5世)は、以前から珠算や読み書きを教えていた私塾を笹川学校(現在の四郷小学校)として開設しました。四郷小学校には銅像と顕彰碑があります。
 

  

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