先人たち(名誉市民)

先人たち
吉田勝太郎 /  伊藤伝七  / 吉田千九郎 / 丹羽文雄

 

吉田勝太郎

          吉田勝太郎       
吉田勝太郎 よしだかつたろう
明治16年(1883)~昭和45年(1970)

 工業誘致に奔走し、近代工業都市をつくり上げる  

 吉田勝太郎氏は、明治の後半から昭和初期にかけて全国各地の文官を歴任し、昭和9年に四日市市長となりました。当時の四日市は、港の第1期改修工事が終わり新しい埋立地が誕生していました。
 氏は、これからの四日市市の発展のためには、近代工業化が必要であると考え、埋立地への工場誘致に奔走しました。機械化が進んだ紡績産業、重化学工業各社が四日市に集積していったのは、氏の大きな功績でした。
 そのほか、隣接町村との合併に尽力するとともに、市立病院の新築や住宅地開発、名四国道、工業用水の建設、農業研究指導所(現在の農業センター)の創設など、生活と産業の基盤をつくり上げました。
 氏の市長就任期間は、戦前と戦後の5期17年。
(昭和34年9月21日推挙)

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伊藤伝七

          伊藤伝七       
伊藤伝七  いとうでんひち
明治11年(1878)~昭和35年(1960)

 紡績産業の発展に貢献し、中小企業の育成にも尽力

 
四日市における近代工業の先駆けとなった紡績工業を発展させた先代の意思を受け継ぎ、紡績工業をはじめ、鉱工業の興隆に貢献しました。
 一方、私財を投じて三岐鉄道の開設を計画するなど、北勢地方の交通運輸の発展にも寄与しました。
 また、長きにわたって商工会議所会頭としての重責も果たし、市内の中小企業の育成を図るとともに、市立商工学校の建設など本市の教育文化の面でも、その発展に力を注ぎました。
(昭和34年9月21日推挙)

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吉田千九郎

          吉田千九郎       
吉田千九郎  よしだせんくろう
明治36年(1903)~平成5年(1993)

 戦後の復興に取り組み、発展の基礎をつくる

 
昭和22年、戦後の新しい地方自治制度が発足し、初の公選市長として就任したのが吉田千九郎氏です。空襲によって焦土と化した四日市の復興のために献身的に努力しました。
 第二海軍燃料廠(しょう)の跡地利用のほか、小学校の再建や新制中学校の整備、市内全域に公民館を設置するなど、教育の充実にも尽力しました。中央通りをはじめとした幹線道路の建設や、港の整備、農業振興、スポーツ・福祉施設の整備など、昭和30年に退任するまで2期8年にわたって、数多くの功績を残しました。
(昭和51年12月22日推挙)

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丹羽文雄

          丹羽文雄       
丹羽文雄  にわふみお
明治37年(1904)~平成17年(2005)

 四日市出身の文化勲章受章作家
 小説「菜の花時まで」は四日市を舞台に


 四日市を代表する作家の一人として親しまれる丹羽文雄氏は、浜田町にある崇顕寺(そうけんじ)の長男として生まれました。早稲田第一高等学校(現在の早稲田大学)在学中に文学の道を志し、帰郷後も僧侶として生活を送る一方、作家活動を続けました。昭和7年、『文藝春秋』に発表した「鮎」で高い評価を受けて上京、ふるさとを描いた「菜の花時まで」をはじめ「贅肉」など数多くの名作を世に送り出しました。
 海軍報道班員としてラバウル方面に赴任した経験をもとに執筆した「海戦」で第2回中央公論賞、「蛇と鳩」で野間文芸賞、「親鸞」で仏教伝導文化賞に輝いたほか、同人雑誌「文学者」発行の労に対し菊池寛賞を受賞するなど、精力的に文筆活動を続けました。
 昭和52年に文化勲章を受章し、翌年、その功績がたたえられ名誉市民となりました。
 なお、四日市市立博物館内には、丹羽文雄氏を顕彰して設置された「丹羽文雄記念室」があります。 
(昭和53年3月28日推挙)

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